プラス思考だと病気にならないのでしょうか?
「プラス思考で頑張れば、病気になんてならないんだよ、
病気になるってことは、あなたの心が間違ってるから。
生き方をあらためなさい。」
これが、世間でよく飛び交う考え方。
浮ついたのが大嫌いな私は、もちろんこれも大嫌い。
確かに、そういう面もある。
ストレスが、病気を作るのだから、”無茶な生活習慣”は改めたほうがいい。
でも、”生き方”まで改める必要はないと私は思う。
健康でないといけないの?
「病は気から」を安易に使って
病人のイライラとやるせなさを逆なでしていく人って大概、
「病気は怖いもの」という恐怖心でいっぱいになっている。
その人が持っている観念は「健康でないと、いけない。」というもの。
恐怖を呼び起こさせる「健康でない者」を、自分の世界から排除したい。
そういうエゴの気分で、自分の欲求を満たして
一人で安心したいがために発言してなすりつけているのが見える。
「病は気から」の氣とは、東洋医学でいう「氣・血・水」の氣。
氣が抜けたり、滞ったり、過剰になったりしてそこから体が弱り、
病気が発生する。
元の氣が取り戻せることを「元気」という。
プラス思考でやみくもに病状を否定して頑張ることとはちがう。
(鬱だと思ってるから鬱になるんだ!←みたいな?)
病気はまず氣の巡りをよくすることで、よくなっていく。
身体を正しく養生する環境を整えることが先決。
身体が整えば、心も整う。
(痛みが無ければそりゃ、笑顔になる余裕もできるよね。)
物理的な身体の異変を、根性論で論じてはならない。
マイナス思考だったりこだわりが強かったり、というのも、
別に病気になりたくてやっていることではない。
性格によるものだったり、脳への損傷でそういう器質が強調されているのかもしれない。
病気になったから、そうなることだってある。
体内に異常があるから病気としてお知らせが出ているわけで、
罰があたって苦しんでいるわけではない。
病気の最中は、プラス思考に切り替えるのが難しい時のほうが多い。
ずっと潜っていて、たまに体調の波が好調に転じて水面にほっと顔が出せた時に前向きに切り替わったりできるくらい。
治っていくときというのは、そういう息が吸える回数が多くなっていった時だと思っている。
「病は気から」を表面的に解釈し、病人に向かって「おまえが変わらないから治らないんだ!」と言う人は有史以来現代まで、ばたばたと病に倒れて死んでいった人たちについてどのように思っているのか。
「あの人は生き方を改めなかったから、病が治らず死んだ」とでも思っているのか。
病に倒れて死んだ人を、そんな目で見ているのかと思うと悲しい。
私は、失礼だと思う。
ちょっと考えれば、
遺伝子の問題だったり、分子レベルでの異変や環境に含まれる毒物、薬とその副作用、電磁波など様々な原因が病気の症状に結びついていく。
調べつくせなかったり、まだ知られていないだけで、ちゃんと病気になる原因がある。
自分でできるストレスのコントロールなんて、ほんのわずか。
もし自分たちのエゴで病気を生み出すような環境に加担していることに気が付いたならば、まず健康な人たちからおかしな社会を変える運動をやってくれればいい。
体力も無い患者本人達に、毎日の病気と闘いながらそれをさせるのは酷だ。
物理的な身体の異変を、根性論で論じてはならない。
病気になったからこそ、得られる知見がある。
また、その人が病によって得られる豊かな知見を無視しすぎるのも、よくない。
(病気になって初めて健康のありがたみがわかるというようなこと)
病気もギフトなのだから。
病に倒れている人は「だめな人」健康で働けている人こそ「普通の人」という”棲み分けをしたがる心”があることに気が付いてほしい。
ありのままの生き物としてのその人を見つめてほしい。
ちがうものを排除しようとする、”貧しさ”に気が付いてほしい。
「病は気から」を他人に強要する人や、
「プラス思考に変わって自分を改めたから自分の病気が治った!」と
感激して標榜する人が多いのは、(実際、そういう病気克服本も多い)
”全員が元気で明るく健康であるべき社会”の病的な部分を反映している。
私には画一的で、気持ちが悪い。
多種多様さを否定する、危険な考え方だと感じる。
福祉の視点を持てないでいる、上っ面のプラス思考まみれの人たち。
健常者でいないと落ちこぼれてしまう・・・!という焦りと恐怖が強い社会。
ドロップアウトした先がお先真っ暗だと信じきっている人たち。
(↑そうでもないよ♪)
気分でなく事実に向き合い、そこから次へつなげませんか。
アダルトチルドレン専門セラピスト
林志のぶ